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terraさんの歴史話には、自分の体験が重ねられているのがまた得がたいところ。
岩村城の二度にわたる落城話のときも、武田や織田の攻撃軍が歩いた道を実際に自分で歩いているらしいし、旧東海道の踏破はもちろん、昭和になっての話でも、例の岩手・田野畑の話は早稲田の恩師・小田泰市氏がらみの体験談から来ていました。
で、今度の高知・龍馬がらみの話。これも体験から来ていて、入交一族の話が出たときは、これはもしや例のホンダ社長レースに破れ、セガの社長になったあともいろいろあったあの入交氏の一族か、と思っていたら、今度の投稿でやはりそうということでした。
あの三五会九州旅行のときは、龍馬とお龍が登った高千穂の峰に、彼らのときとほぼ同じ季節に登り、あまつさえterraさんとmokkiの二人は、龍馬が「やけ土さらさら、すこしなきそうになる」と手紙に書いたざらざらの砂礫を、滑り降りるように下って一行を待ったのでしたね。
terraさんほどは歴史の現場を歩いてはいませんが、こんどの龍馬地図では、初恋の人・平井加尾ちゃんより「かほかたち少しよし」という女剣士・千葉佐那ちゃんのその後のことなども、訪ね歩いています。
よく言われる龍馬との婚約は本当だったのか、明治になってからは千住で千葉灸治院を開いたのち、学習院女子部の舎監を務めるうちに、坂崎紫瀾の書いた龍馬初の伝記『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)を読んで、文中、龍馬の恋人として描かれた千葉周作の娘・光子のことは事実に反すると主張。没しては、灸治院に通った板垣退助の紹介で知った甲府の自由民権家・小田切謙明の縁で、甲府市内の寺に「坂本龍馬室」つまり正妻と刻んだ墓碑を立ててもらったといいます。
その足跡や事実関係を知るため、彼女のインタビューが出ていた明治中期の雑誌「女学雑誌」を山梨文学館で探し当てた(!)ので、今度はその寺や、インタビューを受けた小田切邸の後を訪ねたいと思っています。
もちろんすでに歩いた薩摩、霧島、長崎のほか、お龍とおそらく一番長く暮らした下関、海援隊の船・いろは丸が沈んだ鞆の浦沖等々、そして主舞台の京都、出生地・土佐でまだ行ってないところ、生まれた上町、岩崎弥太郎の保存されている生家などなど、まだまだあちこち歩いて龍馬の足が感じた土地、龍馬の目が見た風景を写真に撮りながら、地図を作りたいと思っています。terraさん、ぜひいろいろ教えてください。
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