|
|
mokkiさんの龍馬シリーズ期待しております。!
来月15日は龍馬の誕生日であり、命日でもあります。今龍馬記念館では桂浜の龍馬(銅像)に年賀状を送ろうという企画があります。そこで銅像建立の経緯と、その後について検証してみたい。
司馬遼太郎が生まれて間もない頃、昭和のはじめ、早稲田の学生入交好保が中心になって、桂浜の龍馬の銅像は完成した。後を追うように中岡慎太郎の銅像も建立した。
その後戦時下で山之内容堂や、板垣退助らの銅像は、皆供出されたが、海援隊長坂本龍馬と陸援隊長中岡慎太郎の銅像は供出されることは無かった。長い歴史が育んだ土佐人の心意気です。
昭和の30年代中ごろ、司馬遼太郎の名作“竜馬がゆく”の連載が一世を風靡していた。
この頃小生入交好脩教授より、幕末土佐のゼミを受ける機会に恵まれた。先生はその当時武市半平太の研究、出版をされていた。
昭和の終わりころ、龍馬を一躍有名にした司馬遼太郎を主賓に迎えて龍馬銅像建立の還暦の祝いをしたのであります
銅像を建立した中心人物入交好保と、大学教授入交好脩は兄弟であった。
入交家は現代の高知県を代表する名家であり経済界その他いろんな方面で活躍しています。兄好保は会社経営の他、文筆活動、そして弟好脩は経済史分野の博士号、学部長、名誉教授と学者の道を極めた。
月さん雨が… 春雨じゃぬれてかえらう
おなじみの月形半平太の名セリフである。
戯曲や映画で有名な“月形半平太”は、司馬遼太郎も実家を訪ねていますが、一般には武市半平太をモデルにしたといわれています。
しかし入交先生は強く否定されていた。土佐人の気持ちも概ね同じでしょう。入交さんは武市半平太研究の一人者です。
娯楽映画と、生々しい悲劇の人物とは違い過ぎます。維新後大酒飲みの山之内容同堂も、惜しい人を死なせてしまったと、酔う度に残念がったという。その後武市半平太も銅像が建立され、土佐人に長く敬愛されています。
以上とりとめもなく書きました。…
|
|