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信長公記によると、秀吉の中国攻めで多くの城主が抵抗したのに対し、御着城は秀吉の応援に来た信長の息子信忠が、城下に火を放ったことですぐ講和した。一方加古川城も、「別所与力嘉古川の賀須屋内膳の城を借り軍勢を入れ…」つまり初めから講和して、兵を城に入れ、秀吉軍本隊は書写山に登り、砦を構えた。その裏には小寺官兵衛が動いていた。
その後糟谷内膳は、秀吉の家来になり、信長跡目相続争いで賤ケ岳に参戦した。柴田勝家との戦いで一番槍の栄誉にもなったのです。7本槍で一人戦死して6人になった時、よく働いた福島正則を加えることを提案した。しかし、今日、福島正則は加藤清正とともに、7本槍の代表のように伝えられております。
その後加古川は河川、陸上交通の接点で軍事上重要な地だったため、秀吉は引き続き糟谷に加古川を治めさせた。
やがて関ヶ原の戦いでは、秀吉恩顧の武将として、西軍に参加。…
西軍の大将三成は関ヶ原の戦いもむなしく、斬首される前に柿(干し柿)を勧められたが、柿を食べると腹を冷やすため体に障る 。と言って断ったと伝えられております。
写真は三多摩の柿。当方今年は、たまたま柿の当たり年。向こう三軒両隣にあげてもアマりあり。しかし。うちのかみさん、よく柿食うお人だ!大丈夫かな。
(追加 “街道てくてく旅 御着”は不注意で消えました。アシカラズ)
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