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展覧会

 投稿者:熊谷博人メール  投稿日:2017年 6月27日(火)15時06分51秒
  木器さん 有難うございます。
どうも文章で表現するのが苦手でして、文様についてはいずれ書きます。

展覧会は私もかなり注意して、予告を見ていますが見落としがあります。東京はあまりのも展覧会が多いのです。
東京近郊に住んでいる、私の知り合いの女性などは、あまり自由に時間がとれないので、月に2・3度都心に出る時には美術館や画廊を1日に5・6っこ廻っています。尤も展覧会は何処も8割ぐらいが女性です。

今お薦めは、根津美術館の「初めての古美術鑑賞ーー紙の装飾」です。和紙そのものをテーマにした展示はユニークな切り口です。7月2日までです。
ご存じかと思いますがこの美術館は、庭を散策できるのがうれしいです。年寄りのデートコースにもピッタリです。

どこぞの大臣が、美術館の学芸員不要論を言っていましたが、とんでもない話です。
最近の美術館、博物館は学芸員が今までに無いテーマで面白い企画和企てています。
新聞社やテレビ局主催の展覧会は、強引な宣伝で人集めをしていますが、地味でまじめな企画も数多くあります。
 

22日の美ヶ原

 投稿者:安曇野の隠居  投稿日:2017年 6月27日(火)05時53分45秒
  22日の美ヶ原
朝起きがけに外に出てみると、有明山に横に3層の雲がかかっているので、急いでカメラを持ちに家の中に入った。出てみると、もう雲の形が変わってしまって居て、面白くないので撮るのを辞めた。僅か1分経つか経たないかだろうに・・・。

軽トラに乗って移動していたら、美ヶ原に雲がかかっており、面白いので撮った。その後入山(安曇野では「ケツ出し山」と呼んでいる)付近にかかっている雲を撮った。その後に美ヶ原を撮ったのだが、わずか4分後なのにもう美ヶ原は見えない。しかし、雲に朝日が当たっており、これはこれでまた面白いなあと思う。自然はほんのわずかの時刻で変化する・・・。

2017年6月22日
写真1、4:26 美ヶ原高原
写真2、4:30 入山
写真3、4:30 美ヶ原高原

 

博人さんもっと!

 投稿者:木器  投稿日:2017年 6月27日(火)02時54分51秒
   博人さん、とりあえず今回はこれで休憩ということですが、興味は尽きません。
 というより、うれしいではありませんか。これほど我が国由来の文化が世界に影響を与えているということは……。

 マニアックな話題とおっしゃいますが、とにかくいろいろきれいなものが洋の東西をつないで見られるだけでも幸せです。きれいなものはいいですね、人間でも文様でも。まえの山東京伝もそうでしたが、どんどん興味が湧いてきます。

 写真を引用されている『KATAGAMI style』というのは、ネットで見たら何年かまえに丸の内アートサロンや京都国立近代美術館で開かれた「KATAGAMI style――もうひとつのジャポニズム」という展覧会の図録だったんですか。

 こういう展覧会にもぜひ行って見たいのですが、なにしろ情報が遅いのと、余裕のない生活テンポのせいで機会を逃しています。
 できるだけ覗いてみたいので、ダメかもしれませんが、もしお薦めのものがあれば、(今回ご紹介の「ファッションとアート 麗しき東西交流展」はもう終わってしまっていますが)ぜひこれからもいろいろ教えてください。

 さしあたっては、この間、6月1日の東京松屋・インテリア和紙ショールーム・庭園ホールでの講演会には、女房も楽しみにしていたのに行けなかったので、今度こそ7月9日、学芸大駅近くの喫茶店「平均律」に行きたいと思います。お薦めのコーヒーとフレンチトーストも楽しみですから……。
 

ジャポニスム 3

 投稿者:熊谷博人メール  投稿日:2017年 6月26日(月)16時47分33秒
  前回、木器さんからいわれた アルフォンス・ミュシャ。
彼は1863年チェコ生まれ、その後パリに出て活躍。1939年プラハで亡くなっています。

ミュシャについては、デザイナーやイラストレータを目指す人、ほとんどが、1度は通過するアーチストです。デッサン力の正確さと装飾的な表現技術は、現代の作家から見ても突出した技術と感性です。当然世紀末のヨーロッパ、なかでもパリの街を飾ったお芝居のポスターは画期的なものでした。1895年舞台女優サラ・ベルナールの芝居ポスターが大好評を博し、「アール・ヌーボー」の騎手として認められたほどでした。

その、ミュシャが描くポスターには日本の「染型紙」がデザイン・ソースとして利用されたといわれています。女性の髪型の、装飾的な線やドレスのパターンに、ポスターの枠飾りなどにその影響が見られます。印象派の画家たちと同様に、日本人の平面的で装飾性豊かなパターン構成が、それまでヨーロッパでは見られなかったのでしょう。

ミュシャは1910年にチェコに帰国し『スラヴ叙事詩』の大作をを20年かけて制作します。
この作品は六本木の美術館で展示されていたので、35会の人も多くご覧になったかと思います。
パリ時代の装飾的な表現とはまったく違う描き方、内容です。スメタナの組曲『わが祖国』に触発されて描いたとも言われています。「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。描き方は一見、パリ時代の表現と違って見えるが、歴史画としては静かな、落ち着いたトーンのなかに、彼ならのテクニックが多く見られます。特に明暗の使い方、余白の構成、など、など、専門的になるのでこの辺で、、、。

「サロメ」のペン画で有名なビアズリーも日本の影響を多分に受けた挿絵画家です。レイアウトの仕方、白黒のバランスの取り方などなど。

展覧会といえば、先日まで横浜美術館で行われていた「ファッションとアート 麗しき東西交流展」でも、イギリスなどで作られていた、江戸時代の小袖の生地を使ったお洒落なドレスが、数多く展示されていました。このように、近年、江戸時代を中心にした「日本オリジナルの美」の展覧会があちこちで行われています。これほどまでに、世界中から注目される、先人たちの「美」に対する感性は、どこからどのように生まれてきたのか、これらの背景に興味は尽きません。

余談ですが、東横線学芸大学駅近くの小さな喫茶店で、私の「文様話し」の会を行っています。取り敢えず5回シリーズで、3回目が7月9日、昼頃です。お近くの方で興味のあるかたはご一報ください。話はともかく珈琲は抜群の旨さです。普段はバロック音楽が流れています。店名は「平均律」。ここのフレンチトーストは、マツコ・デラックスご推薦です。

こんなマニアックなテーマで書いても、おもしろがってくれるか心配ですが、これがラスト回です。
いずれ「文様こぼれ話」的なものが書ければ、顔を出します。

写真は『KATAGAMI  style』から
上がミュシャ、下がビアズリー
 

太田啓佑の絵

 投稿者:hato-ujiメール  投稿日:2017年 6月25日(日)21時35分56秒
  太田啓佑君の旅立ちはただただ悲しい。
 彼は、特に人生の後半は絵を描く事に生きがいを感じていた。 「華麗なる音楽祭」に展示した絵、「老いるほど若くなる」展の絵も彼の絵に対する一所懸命さが伝わって来たが、最近の絵は迫力を感じた。
 つい一ヶ月少し前の5月8日に上田市で【吉田博展】があり、大洞君と啓佑君と3人で観た。吉田博が独自で切り開いた素晴らしい版画をただ見るだけでなく、線の一本一本から学び取るように熱心に観ていた。
その時飯田から車を運転して来た。 大作『大森林の中へ』を私に渡す為に一人で車を運転して来たのだ。その時の無理がたたって旅立ちを早めてしまったかも知れない。絵の中に小さく人物が描かれているが、これは最近になって足したもので 『俺はここにいるぞ』と言っているようだ。
 

もしかして

 投稿者:chie-nie  投稿日:2017年 6月25日(日)14時29分32秒
   ごぶさたしております。

 雨の日曜日、地震警報に驚かされました。どこ?「長野県南部…」という情報にどきっ! TV画面のX印(震源地)が岐阜よりなので木曽かなとは思いましたが、とりあえず兄に電話しました。「揺れたけどなにもおちなかった」って。揺れの強かったところでも、お怪我をされた方も比較的軽症のようでひとまず安心しております。

 子どものころから引きこもりがちだった(箱入り?、そんなわけない!けど)からか、行動範囲は家から歩いて行ける場所がほとんどでした。 もちろん当時はそれなりに冒険!もしたし、そこここに思い出もあって別に不満もなかったのですが、最近はちょっと… 天竜川にもあまりいったことがないし、山の名前なんてほとんど知らない、ほんとに同じ地域を「故郷」としているのかしらん、なんて思ってます。そんなワタクシのふるさとは、気取らない商店街、そこで出会った人々、でしょうか。あれから50年、知っている人がいなくなるたびにどんどん遠くなっていくみたい。

 太田啓祐さん。中学時代にはコーメイさんもご一緒に活動していたことがありました。卒業後はほとんどお会いできなかったかと思いますが、ご自作の絵に「元気?」などと言葉を添えていただいたハガキを思い出しています。ほんと、またひとり。ご冥福をお祈りいたします。

 もしかして私どものことをお気にかけてくださる方がいらっしゃるかも、と思っております。皆様のように元気に、というわけにはいきませんが、それなりに日々を過ごしております。

 まだ雨がやみません。暑さはこれからが本番。どうぞお元気でお過ごしくださいますように。

                  ひさびさの chie-nie
 

またひとり

 投稿者:木器  投稿日:2017年 6月25日(日)03時51分17秒
   20日に平岩祥平さんから太田啓佑さんの訃報を聞いて、この掲示板でもどなたかに書いていただかなかなくてはと思っていたのですが、コーメイさんの真実こころのこもった悼みの言葉をいただき、改めて啓佑さんのことが偲ばれます。

 私はそれほど親しいおつきあいはなかったのですが、一昨年、例の「華齢なる音楽祭」の会場入り口のホールで、コーメイさんも書いておられた「老いるほど若くなる」展の入賞作をはじめとする彼の絵を何点も展示してもらったことが忘れられません。

 音楽祭当日、午後の開演に先立ち午前10時前から会場での準備に出かけたところ、もう彼はずっと早くから来てくれていたようでした。
 お年寄りの音楽祭の趣旨と、受賞された「老いるほど若くなる」展の趣旨がちょうど一致するので、音楽祭への何よりの贈り物ですとお礼を言ったところ、「音楽祭に来る大勢の人に絵をまとめて見てもらえてうれしい」と、こちらからのお礼の何倍もの言葉で「ありがとう、ありがとう」と繰り返してくれたのが印象的でした。

 高校時代からなにかにつけ印象に残る好漢でした。あの特徴ある長い眉毛ともみあげにも、もうお目にかかれないと思うと、またひとり「いい人」がいなくなったとの実感が胸に迫ります。
 コーメイさんが仰るようなさまざまなご苦労もおありだったのでしょうが、みんなに愛されたそのお人柄のぶんわりとあたたかいものを、啓佑さん、ありがとうございました。


 

太田啓佑君!安らかに!

 投稿者:コーメイ  投稿日:2017年 6月24日(土)20時12分44秒
   9月の誕生日までは何とか!という本人の望みも空しく、今月20日早朝、啓佑君は、旅立った。病魔はそれほど深刻であった。

 初めて出合ったのは、中学校で、身長順に並ぶといつも隣あうので、そのせいか、卒業後、そう合う機会が多くはなかったが、常にすぐ近くにいる気がしていた。

 70歳以上の応募で2年に一度開催される「老いるほど若くなる」展に入賞した時、表彰式(下記URL)に顔を出させていただいたが、受賞の際の君の仕草に深い感銘を覚えた。ちょっとした事にも、細かな気配りが極自然に出る。礼儀正しさは、身体から自然と醸し出される。受賞への感謝の気持ちもしっかりと滲み出ていた。

 般若心経に精通し、心の糧としているとのことで、お節介ながら、その解説本を送ったことがあった。「友達って、有難い!」と快く受け取ってくれた。絵画だけでなく、バイオリン等の音楽、スキー等のスポーツ、オートバイの整備・修理、野菜栽培、犬の世話、便利屋と称して、困っている多くの人達の力にもなった。

 酒をこよなく愛した。親代わりとなって育ててくれた義理の叔母さんから聞いた話であるが、3歳の頃、ご祝儀の席につれて行ったところ、1杯だけならと、お酒を飲ませたら、叔母さんの横腹をツンツンとつつく。どうも、もっとお酒が欲しい、というおねだりだった、とのこと。

 酒席で、お酌をすると、いつも嬉しそうに畏まって受けてくれた。満面の笑みとともに、「おい、もっと他に楽しみはないのかい!」と言いたくなるくらい喜びをあらわにした。ご返杯は、こちらがそう強くないと分かっているので、決して無理強いはしなかった。

 晩年は、体調不良にもまして、気苦労の多い時間を過ごしていた。蔭で支えてくれる方にも恵まれたが、心配事を引きずっての旅立ちだったかも知れない。でも、誠心誠意ことに当たる、決してぶれない生き様は、徐々にではあってもいずれそうした心配事を払拭してくれるに違いない。心よりご冥福をお祈りします。そして、安らかにお休みください。

https://www.youtube.com/watch?v=IYYZKQE4FKg

 

素早いお答えに感謝!

 投稿者:木器  投稿日:2017年 6月24日(土)17時08分9秒
  柏雀さんも terra さんも、素早いお答えありがとうございます。

さすが柏雀さんのご回答は、明快でした。
要するに、この接尾語には「~術」「~状態」「~類」といった意味があるということなので、これに「中国」がつくと、「中国術」「中国状態」「中国類」といった意味合いがあると理解していいですよね。

 そしてそれらを総合して「中国趣味」くらいでいいという感じなので、私が辞書も引かずに当てずっぽうで言った「中国風」「中国趣味」でほぼいいということになりますか。
 すると「ジャポニズム」という場合の「日本風」「日本趣味」とどう違うかですが、「ジャポニズム」のほうが「シノワズリー」より、「イズム」であるだけに、何か主張というか思想性がありそう、と思うのはうがちすぎでしょうか。
 このあたり、柏雀さんも博人さんもいかがですか。

 terra さんが調べにいかれた戦いは、「天正伊賀の乱」よりまえのものらしいですが、織田勢にとって伊賀はとにかくしゃくにさわる存在だったでしょうね。
 信長の次男・信雄が、養子に入った伊勢北畠家の義理の親たちを根絶やしにして手中に収め、次は隣の伊賀からの内通者を利用してまで、伊賀を手に入れようとするわけですよね。
 これに映画のキャッチフレーズで言えば「敵1万、俺1人」で、伊賀の忍びの者たちが体力・知力のあらんかぎりを尽くし、痛快な撃退を果たす……。

 百地三太夫など講談本でも懐かしい名まえも出てきて、久しぶりに楽しめる一編になりそうです。
 大野智は、運動能力において半端でないものを持っていますから、鈴木亮平との激しい殺陣を、そのために用意したスタントなしでこなしてしまったそうです。ということは、相手役の鈴木亮平もスタントなしということになります。緊迫感が違うでしょうね。

 ま、傾向は違うとしても何度見ても納得させられる黒澤明の『椿三十郎』における三船と仲代の対決のような娯楽大作、傑作時代劇になっていてくれるとうれしいのですが……。

 

日の出の位置

 投稿者:安曇野の隠居  投稿日:2017年 6月24日(土)09時11分52秒
  日の出の位置
写真集『四季安曇野に暮す』を出版した直後、知らない人から電話がかかって来た。「日の出の位置は1年にどのくらい移動するのですか?」写真集には日の出の写真が多いので、私なら分かると思ったらしい。「冬は鉢伏山の北側から昇るが、夏は分かりません・・・」と答えるしかなかった。冬至に何処から昇るかは知らないが、初日の出は何回も写真に撮っていたので、判っていた。人によって興味をもつことは様々なのだと知った。

そんなことがあり、日の出の位置をきちんと写真に撮ってみることにした。とはいっても、見る位置によって異なるので、定点で撮るしかない。そこで一番簡単な我が家から撮ることにした。撮り始めて6年になるが、未だに冬至・夏至当日に撮れたことがない。晴天ではあっても日の出の位置に雲がかかっていれば撮れない。なかなか難しいものだと思い知らされた。冬至は何とか近日に撮ることが出来たが、特に夏至の頃は梅雨時なので、前後はずっと撮ることが出来なかった。

今年の梅雨はほとんど雨が降らず、晴天が続いた。しかし、当日は雨で駄目だったが、やっと前日の20日に撮ることが出来た。

太陽はこんなに移動するのだと、改めて驚いている。

写真1、2014年12月23日 7:29
写真2、2014年12月24日 7:31 我が家からは東南東、中央右台形が美ヶ原高原、入山は左端
写真3、2017年 7月20日 4:42 我が家からは東北東、日の出右が入山、右端が鉢伏山

 

ペギー葉山/夢の旅路

 投稿者:Go-tandaメール  投稿日:2017年 6月24日(土)01時34分15秒
   皆様の熱い話題に水を差すようで恐縮ですが、小生にも日本を代表する歌手・ペギー葉山お別れの会を昨日済ませて、改めて偉大な歌手の逝去を悲しんでおります。
 65年キャリア 生涯現役の昭和の歌姫「ペギー葉山 お別れの会」が昨日6月22日(木) 帝国ホテル孔雀の間にて音楽界や関係者800余人が参列。
 ジュディー・オングさんはケ・セラ・セラを一部熱唱し、最後の曲「想い出の岬」作詞作曲した弦哲也さんも弔辞しました。親友の歌手菅原洋一さんからはシルバーエイジならぬゴールデンエイジでしょうと励まされた話も披露されました。
 私もペギーさん晩年の10数年間の舞台を見続けて、随分とプライベートなお話も聞きました。
「歌は語れ、語りは歌のように」が印象深い言葉が思い出されます。その間に息子さんの面倒とご主人の看病も続いていましたが、終始明るい表情で、周りの人々を楽しました日々でした。
 丁度、我々の青春時代と重なり、ちょっと先行くお嬢さんの存在は、彼女の育ちや品の良い環境が、周りの人々を明るく幸せにさせて来られたのでしょう。なつかし良き昭和が一つ失われた気持ちで非常に残念です。

*ウェブ上で ペギー葉山 お別れの会と懐かしい写真の数々は
 ヤフージャパン/マイボックス/写真/ペギー葉山 夢の旅路フォルダー内で
最後に「おもいでの岬.mp3 」ペギー最後の新曲も収録あります。

*公開ページのURLは
https://yahoo.jp/box/snc6PC
*スライドショーのURLは
https://yahoo.jp/box/o2biqX

写真はお別れの会会場、若きポール・アンカと共に、南国土佐を後にして初演風景
 

追伸

 投稿者:柏雀  投稿日:2017年 6月23日(金)23時41分57秒
編集済
   辞書を眺めていたら、「japonaiserie」(ジャポネズリー)という言葉があって、「日本の美術品(骨董品)」という意味の他に、古風ですが「日本趣味」「日本についての知識」という意味に使われているようです。

 ここから類推するに、「シノワズリー」には「中国趣味」という意味もあるのではないかと思われます(手元の辞書には載っていないのですが)。

 従って、「中国趣味」という意味で、敢えて「シノニズム」という言葉は必要なかったんじゃないかと。

 以上、素人の思い付きです。
 

信長は伊賀忍者が嫌い?

 投稿者:terra  投稿日:2017年 6月23日(金)21時22分42秒
   そうそう、思い出しました。もう10年程前になります。信長研究仲間と、伊賀の大河内城の戦の検証に出かけたことが有りました。天正伊賀の乱より前、永禄年間の戦いでした。

 戦国時代は、信長も含めて一般に『戦国大名』と呼ばれます。しかし、北畠家は伝統ある国司と呼ばれたこともあり、「守護大名」と呼ばれていました。

 織田軍は北畠家の大河内城の北畠兄弟の息の根を止めることができなかった。
そこで信長は次男信雄を養子に入れて、決着した。

 時経過して、信雄は天正年間北畠の残党と、信長の許しを得ないで、戦いを挑んだが…。
戦に利非ず苦戦を強いられ、父信長に叱責された‥。
その時、伊賀忍者が活躍したようだが‥。

 時ウツリ、江戸時代伊賀の国は、ご存じ藤堂高虎によって支配されました。

 木器さん、今思い出せるのはこんな程度です。悪しからず。







 

なになに?

 投稿者:柏雀  投稿日:2017年 6月23日(金)19時16分20秒
編集済
   外出から帰ったら木器さんから、難しいご質問が・・・・

 「シノワズリー」の件ですが、頭の中を引っ掻き回し、辞書に頼って、思いついたことを取りあえず記述します。

 1)仏語で「中国」は「Chine」(=China英)です。

 2)Chineの形容詞は、chinois(シノワ=男性形)/chinoise(シノワーズ=女性形)で「中国の」とか、大文字で始めれば「中国人」となります。

 3)ところで、英語には「-ry」/「-ery」という接尾語があります。

   名詞や形容詞に付けて名詞を作りますが、その場合、「~の術」(例:archery 洋弓術)とか「~の状態」(例:slavery奴隷状態)、「~の集合物」(例:machinery機械類)といったような意味が付加されます。

 4)で、この英語の「-ry」/「-ery」に当たる仏語は「-rie」/「-erie」なんですが、たぶん、使い方は同じようなものだと思います。(いい加減でごめんなさい)

 5)そこで本題の「シノワズリー(chinoiserie)」ですが、構造的には「chinois+erie」(または"chinoise+rie"?)ということで、集合的に「中国(風)のもの」→「中国(風)の装飾品(置物)」という意味になるのではないかと思います。

 なお、「シノニズム」については、よくわかりません。見かけたことがないような・・・。
 

記憶は定かではありませんが

 投稿者:はりまの shioz  投稿日:2017年 6月23日(金)18時40分28秒
編集済
  tomo さんへの お応えですが、写真と記憶に寄れば、「大洋盛」と言う名前の、「〆張り鶴」と同じ 村上市の銘柄の お酒であったと思いますが、「金賞受賞記念」というラベルが吊るされていますので、その時期、何らかの『金賞』を受賞されたということで、酒屋の主人に薦められた お酒だったように思われますが、十年以上も昔の話で、その お酒の味についての記憶は残っておりません ・・・ 悪しからず、ご容赦下さい。

次のWEBを 参照下さい。
http://www.sakenokadoya.com/taiyo/
 

ジャポニスム2

 投稿者:熊谷博人メール  投稿日:2017年 6月23日(金)17時21分14秒
編集済
   下の古本の写真は、7・8年前に神田の古本屋で見つけた本です。1893年にロンドンで出版されたもので、内容は日本の染めに使う「型紙」を原寸大で印刷したものです。約100枚近くの型紙の文様が納められ、最初のページには本物の型紙も貼られています。当時この種の本がイギリスだけでなく、フランスや、ドイツでも出版されて、しかも、版を重ねていました。
 「型紙」そのものも江戸から明治にかけて大量に欧米に渡っています。今でも、ヨーロッパの美術館、博物館には1万枚という単位で保存されているところが、数カ所あります。今年の春に「江戸東京博物館」で展示が会ったのでご覧になった方もいると思いますが、ご存じ、シーボルトも日本の生活道具などと一緒に型紙や、見本帳を本国に持ち帰っています。
 これらの型紙や見本帳は染めの道具として使うのでは無く、世紀末のジャポニスムの影響もあり、多くの工芸作家や芸術家が自分たちの作品の文様として参考にしたものです。特に「アールヌーボー」という新しい芸術運動の作家たち、ウィリアム・モリスやジョン・ラスキン等に大きな影響を与えました。実際に型紙の文様をそのまま拡大して、絨毯の文様として使ったり、カーテンや壁紙の柄にも使用しています。小菊の文様を拡大してマーガレット文様として絨毯の柄に使ってもいます。ガラス工芸で、有名なガレは北斎や、型紙の文様から大きな影響を受けて、ランプや花瓶などを作っています。
 型紙の文様は黒一色で陰影はなく、平面的。しかも雲や、波のように形が定まらないものもシャープな一本線で表現しています。水の流ればかりをさまざまに表現した「波紋集」は、その曲線を女性の髪型の線に流用したり、巧みにアレンジして使っています。
 ヨーロッパの石作りに見られるような立体的な文様に対して、このように平面的(二次元的)で、しかも、日本オリジナルで精緻な文様構成は先のアール・ヌーボーの作家たちに新たな刺激を与えたようです。
 ある種の鎖国状態に置かれた日本の職人たちは、必然的に日本独自の文様を作り上げたが、結果的には、その高度な感性が同時代の海外の職人に、多大な影響を与えていたことになります。
 近年になって、こうして江戸時代の日本人が作り出した美意識が見直されています。外国ブランドの製品に踊らされること無く、我々のひい爺さんや、ひい婆さんが愛した「衣文化」を見直すことも良かろうと思います。

木器さんミュシャについては次回に書きます。「接吻」はこの間載せたのが全図と思います。

カーペットの写真は『KATAGAMI style』より

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柏雀さんにまた質問

 投稿者:木器  投稿日:2017年 6月23日(金)12時10分50秒
編集済
   しばらく前に、柏雀さんに質問したことですが、「パクス・ブリタニカ」から「パクス・アメリカーナ」という言い方が出てきて、その中国版を「パクス・シニカ」というなら、では〝トランプ王国〟でそれを言うとどんな言い方になるか考えてもらいました。

 もうすぐ中西輝政先生の『アメリカ帝国衰亡論』が世に出ますが、そのとき柏雀さんからアドバイスいただいた「パクス・トランピアーナ」という言い方を提案したところ、先生からも、もし言うとしたらそうなるでしょうね、とOKが出て、本文中に何回か出てきます。感謝です。できあがったらすぐ1冊お送りします。

 それで、またまた図々しくも、ロングドライブでお疲れの柏雀さんに質問なのですが、博人さんのお話に出てくる「ジャポニズム」とか「シノワズリー」という言葉のうち、「シノワズリー」(中国風、中国趣味)という言葉の造語のしくみはどうなっているのでしょうか。

「シニカ」とか「シノ」が「チャイナ」や「支那」(この熟語がまえからパソコンの変換で出なくなっているのも問題ですが)と同根ということはわかりますが、そのあとが「ジャポニズム」のように「シノニズム」とかにならないで「シノワズリー」となったのは、意味が違うのでしょうか。
「~ワズリー」の部分は、どんな意味を持つ接尾語なのか、教えていただけるとありがたいのですが……。

 

天正伊賀の乱

 投稿者:木器  投稿日:2017年 6月23日(金)10時44分49秒
   博人さんの登場をいただいた後、今度は片やまたもや terra さんの出番。
 7月1日公開の映画『忍びの国』。これは『のぼうの城』以来の和田竜原作の映画化で、贔屓にしている「嵐」の大野智が主演、来年の大河「西郷どん」の主役・鈴木亮平が相手役とあって、いまや待ち遠しいマイブームとなっております。

 もち、封切日、舞台挨拶のある上映の席を取りました。
 おそらく戦国時代の権威、terra さんからも、この原作の舞台となった史実、「天正伊賀の乱」について、何らかのコメントがいただけるものと、これも大いに期待しています。

 

ミュシャは?

 投稿者:木器  投稿日:2017年 6月23日(金)04時49分26秒
   博人さん、クリムトとアールヌーボーやジャポニズムの解説、大変興味深く読ませていただいています。

 そういえば、たまたま仕事でご一緒した山形の酒田市美術館で、アールヌーボーの旗手、アルフォンス・ミュシャ展をやっていましたね。あれは国立新美術館でのミュシャ展とはどういう関係になるのでしょうか。貴兄は図録を買われていましたが、今になってみると小生もケチらず買っておくべきだったと後悔しています。
 酒田から帰って国立新美術館で、大作「スラブ叙事詩」20枚だけでも見直そうという気持ちはあったのですが、あっという間に時間が過ぎてしまい、絶好のチャンスを逃しました。

 それはさておき、クリムトとミュシャはほとんど同時代人ですよね。そのあたりにも触れていただくと、ミュシャ展を見た人などにもさらに興味深いお話になろうかと、またまた勝手なリクエストですみません。

 それとクリムトの例の「接吻」ですが、わが家にこれを題材にしたジグゾー画がずっと飾ってあったのを改めて見ると、左右の空間がほとんどありません。
 貴兄が載せてくれた「接吻」は、ご指摘のように余白がかなりありますが、テレビ番組で見たときは、もっとあったような気がしてびっくりしました。こんなに左右に広く余白があったんだ―、むしろ縦長の絵ではなく横長に近い絵だったんだー、と驚いた記憶があるのですが、それは小生の勘違いですか?
 

酒のラベル

 投稿者:tomo  投稿日:2017年 6月22日(木)14時01分40秒
編集済
  また博人さんのお話が始まり、初回のジャポニズム楽しませてもらいました。次回は型紙のお話ということで今から楽しみです。そうしていたらshiozさんのお酒調達のご披露がありました。いいお酒ばかりですね。おっと、右側のお酒はまだ知りません。どんな味なのでしょうか。

ところで、酒のラベルのデザインも江戸小紋のようにはいきませんが、なかなか味わいのあるものと思っています。そんな思いから、もう始めて30年以上になりますが、いまだに酒のビンのラベルを剥がしては残しています。自分が飲んで印象に残ったものだけとしてきましたから、そう簡単には増えないと思っていましたが、なんやらだんだん増えてきました。残念なのは、喜久水の昔のラベルがないこと。もう少し早く思い立てばよかった。
 

新美術館書象展開催中

 投稿者:terra  投稿日:2017年 6月21日(水)21時10分27秒
   田舎の法事は車で行かないのがイイね。こないだ喜久水の猿倉の何とやらを、しこたま飲んで、バスに揺られて又酔って‥。

 飯田高校の先輩,後輩、ご同輩の書の作品をいっぱい見てきました。金森山でご覧下さい。
 

今は昔

 投稿者:おうしん  投稿日:2017年 6月21日(水)18時33分51秒
  皆さんかなり無茶をなさっていたようですね。
おうしんは、1日で信州往復2回1000キロ強というのがありますが、山登りに勤しんで
いた頃は、早朝に家を出て山に登り、夕方下山して麓の温泉で朝を流し、深夜に帰宅して
翌日は仕事などというのはチャメシゴトでした。
今は、車で出かけるのは家人がしんぱいするようになりました。
アンジャアナイとおもうんですけどネ。
 

なんの なんの

 投稿者:はりまの shioz  投稿日:2017年 6月21日(水)18時17分48秒
  75歳(76歳?)の、450キロ ;5時間半 ・・・ 木器さん(50歳台前半?)の1100キロにも増して、てえしたもんだよ ッチュウところです ・・・ ワタクシの場合は、全行程の2.200キロも、最終日の750キロも、角の有無は定かではない“サイ”との、代わる代わるの共同作業で、その間、充分な休憩時間を持てた旅だったのでした。

70歳を超えてからは、飯田(片道:400キロ弱 )への往復も、一人では、車を使用しなくなりました。(飯田で、車が欲しい場合は、レンタカー です。


 

賑やかでうれしい

 投稿者:木器  投稿日:2017年 6月21日(水)17時02分55秒
編集済
   久しぶりに掲示板を賑やかにしていただきありがとうございます。
 おうしんさんならずとも、最近書き込みが少ないなあと、自分のことは棚に上げて嘆いていたところなので、とてもうれしく感じました。

 それに博人さんが、お忙しい中、こっちの勝手なお願いに応えてくださり、あの番組を見ながら知りたいなあと思っていたクリムト周辺の日本と関係するお話が、楽しく読めて大感謝です。

 で、皆さんの話題に誘われて、私もロングドライブの経験を思い出しました。
 記された皆さんの年齢より大分若かったので、別に自慢にはなりませんが、私の場合は片道1100キロ。神奈川の百合ヶ丘から九州の柳川まで、長駆、中部・近畿・中国地方を突っ切り、関門トンネルをくぐっての往復です。

 柳川高校へ入学したばかりの次女を訪ねた連休中のドライブ旅行でしたが、夜中に家を出て、柳川に行くまえに、まずは昼ころに福岡在住の知人の家を訪ねる予定でしたが、どうも早く着きすぎる時間塩梅になったので、途中でかねてから行きたいと思っていた秋吉台に寄って、羊が点在するようなカルスト地形と鍾乳洞を見ました。

 そのクルマがこの間、涙ながらに廃車にしたバンタイプの三菱グランディスでしたから、後部座席をフラットにして布団を敷き、途中眠たくなったらお休みタイムという設定でした。
 運転は、白状するとじつは一人ではなく、長女に代わってもらった時間もありました。
 とはいえこの1100キロはじつに楽しい経験でした。いずれ暇ができたら日本一周ドライブ旅行も、と夢見ていたのですが、どうもそれはなしになってしまったようで残念です。

 残念な話はそれぐらいで今度は美味しい話の「〆張鶴」。shioz さんの買いそろえたお酒の中に「〆張鶴・花」があって懐かしく感じました。
 というのも、うちの長女の婿さんが、私が藤沢に越したときお祝いにと「〆張鶴」の「花・月・雪」の3本セットを持ってきてくれたからです。

 まえにも書きましたが、このお酒は hato-ujiさんが村上市で「ナノ・ウォッシャー」という装置の開発をしていて、浜松ホトニクスを紹介してほしいと頼まれたり、当時彼が一生懸命になっていた棟方志功の版画に関して、山種美術館や韓国大使館に一緒に行った後、お礼だと言って送ってくれて日本酒再開眼した記念すべき銘柄でした。

 その後、『男の嗜み』というちょっと生意気な本を書いたとき、その中でこのお酒のことを採り上げ、越後には「鶴」の付く人気地酒が三つあり「越の三鶴」と呼ばれていて佐渡の「金鶴」(加藤酒造)、栃尾の「越の鶴」(越銘醸)、そしてこの「〆張鶴」(宮尾酒造)であるなどと書いたこともありました。

 そのときは知らなかったのですが、この「越の鶴」には「ほだれ酒」(実った稲の穂が垂れるよう頭が垂れる酒)というのがあり、じつにうれしくなる容器に入っています。興味のある人は、ネットで検索してみてください。
 そんなこんなで、今、手元に「〆張鶴」はありませんが、これも貰い物の珍しい袋入りの無濾過原酒「福耳」純米吟醸(信州北安曇郡池田町・福源酒造)でもグビリとやることにしましょう。


 
 

瀬波の夕日

 投稿者:柏雀  投稿日:2017年 6月21日(水)11時56分5秒
編集済
   法事の後の会食は、夕日が自慢という瀬波のホテルでやったのですが、その日はあいにくの曇天。shiozさんの写真のようなきれいな夕日は、残念ながらみられませんでした。

 でも、出てきた酒はあの「〆張鶴」。土地柄ですね。

 ところで、11年前とはいえ1日に750キロ走ったとは感心しました。

 今回、柏雀が走ったのは、瀬波を出発して、日本海東北自動車道→磐越自動車道→常磐自動車道を通って柏まで約450キロ。途中、3度の休憩を入れて約5時間半。3日後あたりに疲れがどっと出ました。
 

夏の蕎麦

 投稿者:安曇野の隠居  投稿日:2017年 6月21日(水)08時49分19秒
  夏の蕎麦
久しぶりのお湿りで、植物も喜んでいるだろう。

蕎麦の花と言うと、秋を連想する。安曇野では7月下旬から8月にかけて(飯田ではお盆の朝作りにまくと言われていた)種を蒔いて、10月には収穫できる。痩せた傾斜地でも栽培できるので、戦時中など代用食として重宝された。やせ地の方が香りが強く、美味いと言って喜ばれる。

私も家庭菜園で蕎麦を栽培したことがある。収穫の時沢山畑に落ちてしまうので、春に沢山芽が出てきて花が咲く。しかし、収穫せずに耕してしまう。秋に収穫した蕎麦も食べ切れずに、1年後に白鳥の餌用に持って行ってやった。

最近は減反政策もあって、安曇野では今蕎麦の花が咲いている田や畑が多くなった。春に種を蒔いて、夏に収穫する。秋収穫の蕎麦に比べると、香りが弱いと言われる。蕎麦は栽培期間が非常に短いのが特徴。

蕎麦は3たてが一番美味いとされている。獲りたて・挽きたて・茹でたて。それで、獲りたてが喜ばれるようになった。もっとも最近は、秋蕎麦を冷蔵しておくと美味いと言われるが・・・。

写真1.田の蕎麦
写真2、畑の蕎麦
写真3、5:06 蕎麦の花 (蝶でないのが残念。早朝だからまだ蝶は飛ばない)

 

11年前の こと

 投稿者:はりまの shioz  投稿日:2017年 6月20日(火)18時57分55秒
  『 瀬波温泉から一気に帰ってきましたが ・・・ 』という柏雀さんからの便りで思い出したのが、11年前の『日本ロマンチック街道・2,200キロ走破・7日間の旅』でした。

 その5日目の宿は、AAさんの お薦めであった 山形県は“白布温泉”の「東屋」で ・・・
翌6日目は、白布 - 会津若松 城 - 喜多方 ラーメン を経て、村上市の“瀬波温泉”での泊りでした。
瀬波海岸から観た “夕日”は、下の写真の如くで ・・・ 実に感動的でした。

そして、7日目は、 瀬波-中条<日本海東北>新潟空港-(豪農の館)-新潟亀田<日本海東北-北陸-名神-中国-山陽>三木小野-加古川 (この日の走行距離:約750キロ ) だったのでした ・・・ まだまだ若かった、64歳だった 時のことでした。

村上市に於ける、お酒調達の状況は、次の「トピック3」のような次第で ・・・
トピック3:お酒
夕食時のビール一杯の後には、地のお酒を少しだけ味わわせて頂きましたが、越後の村上では、“るるぶ”で紹介されていた、店主が名物という酒道楽工藤を訪れて、余り値の張らないお酒をこの程度入手してきました。もちろん、hato-ujiさん御推薦の“〆張鶴”も入っています。
尚、バックの色紙は店主が書いてくれたものです。

くまさんの「ジャポニズム」 ・・・ 素晴らしいですね ・・・ 次回を期待しております。


 

ジャポニスム

 投稿者:熊谷博人メール  投稿日:2017年 6月20日(火)17時03分43秒
   木器さんからのリクエストで原稿を書けと言われたのですが、皆さんが興味を持ってくれるか不安です。
今月の初めにBSフジで「松下奈緒が迫る魅惑の芸術都市ウィーンへの旅」という番組でクリムトという画家を取り上げていました。彼の絵に使われている文様のなかに、日本からの影響を受けたパターンが頻繁に見られます。
 浮世絵が印象派のゴッホやモネに大きな影響を与えたことはあまりにも有名ですが、それだけでは無く、当時、ヨーロッパを「ジャポニスム」という日本趣味が席巻していました。世紀末芸術全般に「アールヌーボー」などの工芸にも日本趣味のパターが多く見られるので、そんな話を少し書いてみます。
 まず、BSフジで紹介されたクリムトは1862年ウイーン生まれ、1912没。
彼の生まれる前後から19世紀末のヨーロッパでは「シノワズリー」や「ジャポニスム」という東洋趣味に注目が集まっていました。さらに、鎖国をしていた江戸時代でも、有田焼の磁器や漆工芸品や浮世絵、染めに使う型紙などが大量にヨーロッパに渡っていた。日本独自の美意識がヨーロッパの人たちに驚きを持って向かい入れわれたのでしょう。そういった美意識が若い画家、クリムトにも大きな影響を与えたのでしょう。彼の代表作「接吻」のなかにも日本の文様が多く見られます。
「市松文様」「流水文様」「光琳菊」「渦巻き」など、など。画家であるクリムトはその文様をそのまま使うのでは無く、自分の文様に消化して使っています。更に、文様だけではなく、全体を覆う金は、金箔の屏風からのイメージでしょう。この怪しげな絵画にはぴったりなバックを作り上げています。また、余白を多く取った構成は、琳派の影響でしょう。
 クリムトは日本の「家紋」や「漆見本帳」「甲冑」などもコレクションしていたようです。特に家紋は多くの作品に頻繁に使われています。
 江戸時代の名もない職人たちが作り出した、日本オリジナルな文様や、日本人の感性が、こうして海外の画家たちにうれしい刺激を与え、普及していたことに、現代のわれわれも時代をを超えて誇りに思えます。

次回は染めの型紙が、ヨーロッパの工芸にどのような影響を与えたかを書きます。
 

オープンガーデン

 投稿者:安曇野の隠居  投稿日:2017年 6月20日(火)08時53分45秒
  オープンガーデン
花いっぱい運動発祥の地松本市には、以前から自分の庭を決められた日に一般に開放するオープンガーデンが盛んであった。精魂込めて手入れした庭を自分だけで楽しむのではなく、皆にも楽しんでもらう。自動車で走っていると、バラが一杯美しく咲いている庭に出会うことがある。豊科美術館のバラ園によく写真を撮りに行く私は、そんな庭には魅力を感じ、見てみたいと思う。庭を解放してくれるのはありがたいことだ。オープンガーデン行う各家庭を紹介するパンフレットも出来ていることを今年知った。

2~3年前、穂高でオープンガーデンを行うという新聞報道を見て、私は早速でかけて行った。都会から安曇野にあこがれて引退後に移住してきたと言う。お茶とお菓子が用意してあり、いろいろ話を聞いた。障害者施設などで造った小物を販売し、その料金は寄付するという心意気に共鳴したが、あいにく私が欲しい物は無かったのでカンパした。

今年はその人を中心に3人が一緒になって、安曇野市でもオープンガーデンを開始したと市民タイムスに報道された。電話で場所を聞き、早速出かけて行った。よく手入れされた庭で、いろいろな種類の花が咲いている。矢車草にベボウが止まろうとするのだが、太ちょで矢車草がしなってしまうので次に移る。やっとしならない花に止まったところをパチリ。

もう一軒の場所を聞いて行ってみた。何と我が家のすぐ近くであり、以前にナイターソフトボールチームで一緒にやっていた人の家だった。庭造りに精を出しているとは全く知らなかった。久しぶりに懐かしい思い出話に花が咲く。

写真1、バックは常念岳
写真2、?
写真3、苦労してやっとパチリ

 

会津の宿で

 投稿者:柏雀  投稿日:2017年 6月20日(火)00時05分7秒
   10日近く前、文字通り人品骨柄卑しからぬ老夫婦と会津の宿に泊まり合わせました。ご主人は偶々その日が91歳の誕生日だと言っていました。

 なんでも、彼の先祖に、福井藩士で戊辰戦争では官軍として会津で戦った人がいて、その足跡をさがし歩いているとのことでした。しかし、大久保利通とも親交があったぐらいの人だから、何か残っているのではと期待してきたが「結論としては、何も見つからなかった」とのこと。

 また、彼は父親が満鉄に勤めていたことから満州で生まれたが、日支事変が始まった頃、本土に引き揚げたとか、長兄は乗っていた空母「蒼龍」がミッドウエーで撃沈され、波間に漂っているところを駆逐艦に救助されたが、結局、ガダルカナルで戦死したとか、ま、こんな話を聞きながら食事をしたのですが、何といいますか、戊辰戦争が話題になるなんて会津ならではのことではないかと・・・

 それにしても、あのご夫婦、お二人ともすこぶるお元気で、ボケのボの字もなかったですね。

 ところで、なんで会津へ行ったかって?

 実は新潟県の家内の実家で法事があって、当日の早朝に車で家を出れば間に合う計算だったのですが、各方面からトシを考えろ!!というあり難いご忠告があって、前日に途中の会津まで行き、一泊した次第。

 もっとも帰りは、息子どもには内緒で新潟県村上市の瀬波温泉から一気に帰ってきましたが、さすがに疲れました。やはり、あまりバカなことはしない方がいいみたいです。
 

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